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バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)


Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)

感想:

ベネッセ教育総合研究所によると、小/中/高校生それぞれの「なりたい職業ランキング」ベスト3は以下の通り。

【小学生】1. サッカー選手 / 2. 野球選手 / 3. 医師
【中学生】1. 野球選手 / 2. サッカー選手 / 3. 芸能人
【高校生】1. 学校の先生 / 2. 公務員 / 3. 研究者・大学教員
(第2回子ども生活実態基本調査報告書 2009)

小さな男の子たちにとって、スポーツマンは相変わらず人気の職業だ。大勢の観客を自分のプレイで興奮させることが出来る素晴らしさ。既に自身がそれを感じている事が、憧れの対象となる理由だろう。

3位にランクインした医者も、けがや病気を治してくれる人として、言い換えれば「ふつうのひとにはできないこと」をやってのける職業を、これまた自身が風邪を引いたり虫歯になったりした時に、親でさえ手の打ちようがない事を解決してくれたという経験を基に憧れているのだろう。

しかし成長するにつれ、子供たちの思う「自分の将来」は現実的なものになっていく。中学生までのトップ3に入っていた「スポーツ選手、医者、芸能人」は高校生ではランク外に落ち、「学校の先生、公務員、研究者・大学教員」に入れ替わる。

「才能がなければ出来ない仕事」を諦め、「資格さえあれば就ける仕事」を選ぶようになる。

もちろんこんなアンケートに答えている高校生はそもそも真面目な子ばかりだろうから、才能やセンスを必要とする職業を目指している”尖った”人は答えていないだけなのかもしれない。

一方高校を卒業し、何らかの仕事に就き、結婚して家庭を作った人が自分の子供になって欲しい職業は、ここ数十年「公務員」が断トツだ。悲しい話だが、大人になってからの「幸せ」は、ある程度の安定した収入がなければ成り立ちにくい。その問題に日々向き合っていると、望んでいたものとは全く変わったかたちの「幸せ」が欲しくなっていたりするものなのだ。これはあくまで平均的な回答を基に考えた場合の結論で、もちろん他人には分からない基準での「幸せ」を掴んでいる人もいる事は承知している。

 

「仮面ライダー555」8話に出てくるセリフにこんなものがある。

「夢ってのは 呪いと同じなんだ。呪いを解くには、夢を叶えなきゃならない。でも、途中で挫折した人間は、ずっと呪われたままなんだ」

日本のヒップホップグルーブであるライムスターの宇多丸は、彼らの曲”Ocne Again”において「夢 別名 呪いで目が痛くて」とこのセリフにインスパイアされたラップを披露している。確かに夢追い人にとっては「刺さる」台詞だ。

しかし、「叶わない夢 = 呪い」なのだろうか? 個人的には「夢は”叶っても”呪いはかかる」と考える。

ぼくは十数年前に上京した際「これが出来たらいいな」と思っていた夢はほとんど叶えた。インターネットを通じて自分の作ったものを評価してもらうという試みは、週刊誌連載の挿絵作成というかたちで仕事になった。その勢いもあって、自分の名前でワンマンイベントも出来た。そこでの出会いをきっかけに結婚して子供まで授かったというのは、おまけにしてはもったいなさすぎるものだった。しばらくは幸せな日々が続いた。しばらくは。

連載は終わり、夫婦生活は破たんして離婚、もうぼくが何をやっていたかを知る人はほとんどおらず、イベントを打てる動員力も無い。すべての幸せは過去にあり、それをこの映画感想エントリなどで昔取った杵柄よろしく事あるごとに自慢話として引用するのは流石に最近自分ごとながらうざく、とはいえ他に話したくなるような出来事も最近は起きないので、自分の充実した日々の記憶を引っ張り出してくる事でしか映画の感想を紐付けられない日々を送っている。

「もうお前のピークは過ぎた。残りの人生には何も残っていない。夢は叶ったんだから、生きているだけでもありがたいだろう?」と、自分の中にいる、自分のことを俯瞰で見ているもう一人の自分が時折脳内でそう囁く。それこそが夢を叶えて満足したはずのぼくにかけられた「呪い」なのだ。

 

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」は、世間的には”終わっている”俳優が、彼らに自分の実力を認めさせるため、俳優を志すきっかけとなった短編小説の主人公を舞台で演じる際に起きた葛藤やトラブルをほぼ1カットで見せる作品だ。タイトルに小難しい副題がついているのでパッと見難解そうだが、実際には演じるマイケル・キートン自身が「ちくしょー俺はアメコミ映画の主人公演じただけの人間じゃねぇぞ」と、ハゲた頭に怒りの湯気を立てながら右往左往するブラック・コメディなので、ビール片手に頑張れハゲ、と心の中で中途半端に応援しながら観るくらいが丁度良い。

ほぼ1カットのからくりは撮影技術にあって、一つの劇場を舞台として据え、その中を登場人物たちが縦横無尽に移動する際、そのカメラがパンしたり別の部屋に入ったりするなどのタイミングで、前のカットと続くカットがあたかも連続して撮影されているように合成してある。なのでこれらを繋ぐためにはあらかじめすべてのカットがどうつながるか考えておく必要があり、その準備のようすを想像しただけでも気が遠くなりそうだ。

監督は前作「ゼロ・グラビティ」で成し得なかった「すべてのカットがつながっている映像」を本作で実現したかったとの事で、撮影監督に「ゼロ・グラビティ」のエマニュエル・ルベツキを(当然だが)続投させた。

しかしこの「すべてがつながっている1カット」は何を意味するのだろうか。最初に言ってしまうが、これは「主人公が死ぬ間際に見た記憶の走馬灯」だろう(実際には主人公が立ち会っていない場面もあるけれど)。自分が一番やりたかった舞台を、自らの手で幕を引くまでの記憶。そこに至るまでの、さして重要でない部分については記憶から排除されているから、つながっているように見える場面の移動中に、唐突に時間が飛んだりしている。また時折、自分に都合のいい情報が追加されているのは、「自分は本当は特別な人間なんだ」という想いが記憶に呼びかけた影響だろう。離れた場所のものを動かせたり、空を飛べたりといった、かつての自分がスクリーンの中では使えていた能力が、現実と混在して呼び起されていたのではないか。

 

自分の再起のために用意された舞台は、自分よりも集客出来て実力もある男に乗っ取られてしまいそうになったうえ、自分の娘も彼に恋心を抱いた。自暴自棄になって酔っぱらったあげく通りで出会ったものでさえ、本物の狂人と見間違うほどの演技力を持っていたのだ。

自分の器を知る。自分が結果を出せるだけの実力が無い事にはっきりと気がついた。この夢は叶わない。舞台が成功したとして、その手柄は俺のものではない。舞台初日、共演者に、評論家連中に勝つには、自分が迫真の演技をするためには……本物を使えばいいのだ。

 

「そんな芝居って無いよ」

 

落語「淀五郎」に出てくる中村屋の旦那ならそう言って諭すだろう。この話はその中村屋のいない淀五郎のようなもので、つまり本当に淀五郎が思いついた通り大星由良助が判官を突っ殺して終わる忠臣蔵である。現実と舞台がごちゃまぜになった主人公はその引き金を引いた。

隕石が落ちてくる。トラウマになっていたクラゲはすべて死んだ。病院にいる。こめかみを撃ちぬいたはずなのに、周りの人間は鼻を撃ちぬいたという。包帯を取ると、そこにはまだ鼻が付いている。娘は自分を理解してくれた。父親は本当に超人なのだという事も確認してくれた。だからもう、コスチュームを着たバードマンはいらない。それを着なくても俺は唯一無二の存在だから。このシーンのつじつまが合わないのは、それが現実では起こりえないからで、つまり長かった記憶の走馬灯の最後に主人公が見た、彼が叶えたかった事のまぼろしだったのではないか。

多くの人に注目されたいだけなら、方法は簡単だ。タイムズ・スクウェアをパンツ一丁で走り回ればいい。有名人ならなおさら目を引く。インターネットを介して、100万人に注目される。2000人程度の劇場で、酷評と赤字のリスクを背負ってやるよりはるかに効率的だ。そういうことではないのか? 自分の何を見せたいんだ? それで自分の事を「どう思って」ほしいんだ? そう思われたとして何なんだ? お前の「呪い」は解けるのか? 

その全てに答える事無く、主人公は自らが選んだ終焉を迎える。呪いを解く方法はひとつしかないと気付いて、それを一刻も早く実行したかったのだ。

 

英語が出来ないもので、結末に向けてテンションが上がる演技力の半分も受け取る事が出来なかったと思う。これが日本語なら、それぞれの役者の言い回しひとつとってもどちらが上手いのか(もしくは「下手にみえるよう演技」しているのか)、進むにつれてどれだけ上手くなっているのか、ということがわかったろう。役者たちの「劇中におけるリアリティある人間としての演技」と「劇中劇を演じるための演技」は違うだろうから、それを感じるだけの英語力を持っていればと思うことしきりだった。「ウェインズ・ワールド2」における、「ガソリンスタンドの店員役を大根役者からチャールトン・ヘストンに替えると、道順を教えるだけでもグッと来てしまうギャグ」が、吹き替えになってようやく笑えたように、ソフト化した際にはぜひその辺のニュアンスも台詞で感じることが出来たらなと思う。

エマ・ストーンは今まで見た出演作の中で一番可愛かった。「真実か挑戦かゲーム」は「インベッド・ウィズ・マドンナ」で知っていたので、エマ・ストーンがシャンパンの瓶でフェラチオの真似してくれるんじゃないかと一瞬期待したが、それは無かった。その「真実か挑戦かゲーム」の相手になるエドワード・ノートンも「何でもしていいのなら君のその目玉をくりぬいてぼくのと入れ替えたい。そこにどんな世界が広がっているのか見てみたい」という、「充分な実力がある天才肌の人間でも、既にこの世界に飽き飽きしている」という想いが伝わってくるシーンが良かった。

そういえばマネージャーが主人公をやる気にさせる嘘として使った「初日にはマーチン・スコセッシも来るらしいよ」と言ってた前フリ、第一幕が終わって劇場から出てくる人の中にそれっぽい白髪黒眉メガネの人がいた。カメオだろうか、そっくりさんだろうか(追記:IMDBによると本物らしい)。どちらにせよ、その場面はすでに主人公が願んだ世界の話なので、本当に彼が舞台を観に来ていたかどうかはわからないのだけれど。

マイケル・キートンの事を「バットマンの人」として認識している人は感情移入しやすいと思います。「ビートルジュースがカッコつけてんじゃねえよ!!」と思った人は、「ビートルジュース」を見ると良いと思います。ではでは。

おわり

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