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クロニクル


Chronicle

感想:

力が欲しいか? ならばくれてやる。

だがその引き換えに得るものが憤怒と屈辱と絶望しかなくても、君は力(Power)が欲しいかい?

映画「クロニクル」は、監督であるジョシュ・トランクが「大いに影響をうけた」語るとおり、大友克洋の漫画「童夢」で描かれていたような超能力による破壊描写を実写化した作品だ。

ある日突然、自分に通常の人間は誰も持っていない超能力が授るという話自体はアメリカン・ヒーロー・コミックのお決まりともいえる出だしである。しかし他の作品とちょっと違う点は、そういった能力を授かるのが「それまで平凡だった」主人公だけではなく、既に「ある程度の力を持っている」人物にも与えられるという事だ。

ひとりは主人公のいとこで「知性」に憧れ、それを探求しているマット。もうひとりは生徒会長に立候補する程の人徳がある黒人で、「権力」に憧れるスティーブ。対して主人公のアンドリューは、手に入れたビデオカメラで自分の生活を記録し、それをまとめてはインターネットへアップロードするという、他人から見たらどうでもいい日常を過ごしている。

この「他人から見たらどうでもいい映像」が、徐々に「普通の人間には体験できない日常の記録」へと変わっていく。ビデオカメラが撮っている「体(てい)」で作られた映像というのは数々あるが、「クロニクル」に関してはただ単に流行っていたから、という理由で採用されたのではないと思う。ビデオカメラの映像という観客を素直に映画へ誘わない演出をしたのは、 「自分の人生に起こる不幸や不満をメディア越しに誰かに訴えかけたとしても、誰も助けてはくれないし解決しない」という事を伝えたかったからではないだろうか。

愚痴、嫉妬、メンヘラ自慢。自分は不幸な人生だ、あいつが認められるなんてみんなセンスがない、この世の中は間違っている。

毎日Twitterに大量に流れるこれらのつぶやきは、例えそれが正論であったとしても、本当にこの世の中を変える手段だったとしても、「あなた」以外の人にはどうでもいい事だ。それを証明してみせるかのように、エンドロールでは冒頭華やかな音楽に乗せて監督や出演者の名前が派手に出る。だがそこから音は途切れ、一転ノイズの乗った陰湿なBGMとなり、それが流れる中スタッフロールは淡々と続く。この選曲に疑問を感じた人もいるかもしれないが、では何故このような真逆の演出がエンドロールに施されているのだろうか。それは、鑑賞後にあなたがこの作品に感動していたとしても、この作品を作った数多くのスタッフたちを確かめようとその流れていく文字列に目をやることはほとんどないという事を気付かせたかったからでは、と思う。孤独で目立たないな主人公に感情移入したあなただって、実は華やかな音楽とキラキラしたバックグラウンドに大きな文字で浮かぶ、映画において「興味を持たれる存在」の人たち以外は興味ないだろ? と。

さて、持たざるものが「華やかな舞台に立つ力を得る」事は本当に幸せなのだろうか、という事を考える。

私たちは時々ヒーローに憧れる。有名人に憧れる。大勢の観客が集まるなか舞台に立ち、自分のパフォーマンスで拍手喝さいを浴びたいと思ったりする。けれども突然舞台に立てたとして、観客に「何を」褒め称えてもらいたいのだろうか。自分の「どこに」観客は魅了されたのだろうか。人の琴線に触れるための才能もなく努力もしていないのに注目されているという事は、観客がその行動に出るのは「あなた」が素晴らしいからではなく、「あなた以外の何か」が素晴らしいからじゃないだろうか。

人としてどう生きるかという事を探求するマットは、その力をどう行使するかというロジカルな理性がある。歴史的に多くの人間が「力」を誤って使ったがために引き起こされた多くの悲劇を知っている。だから彼は授かった力をコントロールしようと心掛ける。

スティーブの場合は既にある程度の「力」を持って日々を過ごしている。選挙に当選するために、他人との付き合い方についても気を付けている。「持っている」人間だから、マジック・ショーではアンドリューの引立て役に回れる。そんな事で注目を浴びなくても、彼は充分に注目されている存在だから。その力を遊び以外の「ここぞ」という時に使うのは「今」ではないという事を充分認識している。

アンドリューは、偶然得る事の出来た「力」を使っても何も変わらなかった。正確には半日ほど、「そちらの世界」に滞在できた。しかしパーティでの失態から、翌日登校してみればいつもと変わらない「大勢から小馬鹿にされる学校生活」が待っていた。しかもさらに状況は悪くなるのだ。

力が欲しいか?

自宅で衰弱していくアンドリューの母に必要な薬の金、700ドル。働かない父親が用意できないのはわかるとして、何故彼はそれを得る方法を、その力を使って得ようとするまでに他の手段を模索しなかったのだろう。何故行動しなかったのだろう。その額なら貸してくれそうな「命を助けた」スティーブや、借りる方法を考えてくれそうなマットに何故相談しなかったのだろう。それはアンドリューがそういった話を切り出せるほどには彼らに心を開いていなかったからではないだろうか。自分の生活がどんなみじめかなんて、周りの人間には知られたくない。しかしアンドリューは日々撮影した記録(クロニクル)をまとめては、誰が見ているともしれないインターネットへアップロードし続ける。それは私たちがTwitterやblogに、それで何が変わるわけでもないと充分知っていながらも誰に向けるでもなく書き込んでは日々をやり過ごす行動と似ている。

結局「力」は自分に何も「与え」なかった。ならばこれからは自分が「力」で「得る」のだ。邪魔するものがあれば、雷をもって死を与えよう。神がそうするように。

かくしてアンドリューは行動に移った。この力で必要な金を得るのだ。そのためには……近所のチンピラからカツアゲする、とか。



おいちょっとまてバカ。



大いなる力には大いなる責任が伴うというが……その前にある程度の知能も必要なようだ。なんで親父の消防服着てんだバカ。そっちの方が目立つだろバカ。そしてそんな恰好で昼間から行動するなバカ。マスクしたって5秒で身元割れてんじゃねえかバカ。なんで近所のガソリンスタンドにある金額程度盗むんだバカ。どうせならもっと金のあるとこ行けバカ。ロースト人間になってんじゃねえバカ。そんで着ないよりましとはいえその消防服って耐火機能あんま良くねえじゃねえかバカ。残った力でシアトル飛び回ってんじゃねえバカ。映像アングルの自由度上げるためにカメラいっぱいパクッてんじゃねえバカ。それ半分制作者側の都合じゃねえかバカ。死ぬなバカ。

という事で、貧乏と童貞をこじらせるとろくなことがない、という教訓をこの映画は教えてくれたと思います。もしあのパーティーでアンドリューが童貞喪失していたとしたら、彼はチベットじゃなくてマリブに行くことを選んだんじゃないかな。ハノイ・ロックスの「マリブビーチの誘惑」によると、マリブにも坊主はいるみたいだしさ。まぁ病気をもらっていなければ、の話なんだけれど。あと彼の吐いたゲロは誘った彼女の肩にかかっていたので、キスの途中で吐いたんじゃなくて、立ったまましゃぶってもらおうとしてる途中に吐いたんだと思います。

ダメ高校生学園青春みんな死ね映画の傑作。青春時代が最悪だったあなたにお薦めです!!

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