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ラバー


Rubber

感想:

以前、この映画の予告編が公開された際に気になっていたんですが、いつの間にか忘れていて、先日huluで配信されていたので観てみました。とても面白い作品でした。蒲団で横になりながらiPhoneで観たので「途中で寝落ちするかな」と思ったのですが、話が進むにつれ逆に意識は覚醒していきました。

この感想を書く前に、他の人の評を観てみました。大半が、「意味がわからない、退屈」というものでした。そして大半の人が冒頭に出てくる、

「映画の設定に意味は無い」 

という「ひっかけセリフ」に捕らわれていて、なんとも残念な鑑賞方法になっているのでした。

タイヤが意志を持ち、何かを超能力で吹っ飛ばす。それが「何故」かということに意味は無いでしょう。しかし、「タイヤが意志を持ち、何かを吹っ飛ばす映像が撮りたい」という制作者側の動機は明らかにあるのです。

映画とは通常、90分ほどの尺が必要です。しかし、予告編以上の事が起こらないこの映画において、その残りをどう埋めるのか、それを考えるのは大変な作業だと思います。もちろん、これを普通のホラー映画として作る事は出来たでしょう。それを何故しなかったかというと、作中示されている通り「映画を話として成立させたいだけの、つまらない茶番やって何になるんだ」という、明らかな主張があるからです。

原因不明の殺人事件が起きる > 管轄の警察が謎を追う > なお続く殺人事件 > 判明した犯人 > 事件の結末


「タイヤが意志を持ったような映像を撮りたい。それさえ撮れれば良い」と思ってる連中にとって、上記の要素(物語)は蛇足でしかありません。映画として成立するために必要だと言わせる、「意味の無いもの」です。「意味が分からなくてつまらない」という人は、鑑賞を止めればいいのですが、残念なことに観客は劇中のギャラリー同様、「何かが起きるのでは、このシュールな設定には”何か意味があるのでは”」と思い双眼鏡を手放すことが出来ません。「最後までみたけどつまんなかった」という感想は、「全部観た」から出すことが出来るのです。

ではストーリーを制作者側が放棄しているとして、この作品で楽しむべきところは何か。それは、「タイヤがまるで生きているように見える」という演出の部分なのです。そしてそれは、凄く上手くいっていると思いました。

物語冒頭、主人公のタイヤ(いちおうロバートという名前が付いている)が砂に埋もれている様子は文字通り「タイヤが砂に埋もれている」以上の感想が出ない映像です。しかしそこから、ゆっくりと、段階を踏みながら、「命」が吹き込まれていきます。タイヤをちょんちょんと水につけるだけで、「いかにも水を飲んでいるように」見えたり、フルフルと振るえる様子にS.E.をつけるだけで、「超能力を発動しているように」見えたりするという具合です。そういった演出の結果、我々はいつのまにかこの殺人タイヤを「生物」として無意識にとらえるようになります。事実は私はタイヤがプールに沈んでいるシーンを見て「そんなに長い時間沈んでいて、息は大丈夫なのか」と不安になったりしました。

最終的には「タイヤがモーテルでテレビを観ている」という場面が成立します。この「画」だけとって誰かに見せても、「つきっぱなしのテレビがある部屋の椅子に、タイヤが置いてある」としか判断できないでしょう。だからこの場面を「タイヤのくせにテレビ観てんじゃねえよ」と観客が思ったとしたら、それはこの映画のテーマが観客に充分に伝わっている、ということなのです。だからその他の事は、すべて蛇足なのです。

ホラー映画ではよく、「悪霊や怨念が憑りついた」という設定で無機物が人を殺す設定があります。「チャイルドプレイ」ではおもちゃの人形に、「クリスティーン」では車に、またSF映画ではコンピュータが意志を持って人間に立ちはだかる事がよくあります。

ではその方法論は、「そのへんにあるタイヤ」でも成立するのか? という事を制作者は確かめたかったのではないでしょうか。そして実際撮ってみたら、思いのほか生きているように見えた、と。ひょっとしたらこれ、映画にしてもいいのでは、と。しかし冒頭の通り、「それ以上の意味はない」のです。スクリーンにかけてもらうには、残った尺を埋めなければならない。それっぽいストーリーを紡がなければならない。でもそんな事をしたところで、箸にも棒にもかからないZ級ホラーが1本できるだけだ、と。そこで本作では、「映画をなんだか意味のあるように見せる別の演出として」この殺人タイヤの物語を追う存在としての「観客たち」が出てきます。

「観客たち」は一向に進まない、この平坦で退屈な物語を見続けます。制作者側は、もう充分にやりたいこと(殺人タイヤの描写)を撮ってしまったので、この物語を終わらせたくて仕方がありません。そこで観客たちに毒入りの食事を与えます。「鑑賞を断念せざるを得ない原因」です。それはある人にとっては眠気でしょうし、ある人にとっては残忍だったり背徳的だったりといった描写を見せられる事かもしれません。鑑賞者が次々と死んでいく(鑑賞を止める)中、それらには目もくれずに映画を観続ける人がいます。その人は「一過言ある映画オタク」で、劇中では障碍者の扱いです(「自分の足で歩くことが出来ない」という事を言いたいのであれば、やりすぎな気もしますが)。彼はどれだけ退屈であろうと、この物語を追い続け、最終的には物語の落とし方まで口をはさんでくるのです。物語に踏み込んだ彼は、観客としての一線を越えた代償としてタイヤに吹っ飛ばされます。とても溜飲が下がるシーンでした。

さて、ぼくが映画についてこのような見方が出来るようになったのは最近の事です。実は半年に一度くらいのペースでショートムービーを撮っています。5分程度のものなので、1作品ごとに「こういうことをやってみよう」と、アイデァを可視化出来るかどうかを実験がてら撮影しています。その中で作り手として、「映像制作って面白いな」と思う事があります。

セリフに整合性があれば、同じ時間に居合わせなかった役者さん同士の演技でも、編集する事によってあたかも会話しているように見える、とか、秋に撮影してもセミの鳴き声を入れるだけで季節が夏に感じる、とか、何もないところに3CGモデルを合成するだけでSF感がでる、とか。

そういう経験をしてから改めて映画を観ると、制作者の意図していることが幾分理解し易くなります。最初は不条理な物語に感じても、実は「肝心の理由を説明していない」だけで、答えは画面に配置されていた、なんてことに気付いたりします。だからぼくとおなじ経験をしろ……とは言いませんが、あえて答えを隠したり用意していなかったりする映画を「意味不明」「つまらない」の一言で切り捨てるのではなく、「隠された意図があるのでは」と読み解こうとする努力をするのも、映画の楽しみ方の一つではないかなと思うようになりました。

演出のみならず、撮影も素晴らしかったです。バッキバキに決まった構図と、ところどころ極端な被写界深度を使った撮り方に感心しました。それらを確認できただけでも、決して「手抜き」でも「意味不明」でもない作品だという気持ちになれました。結果的に「意味はない」という前フリがありながらも、個人的にこれだけの文字数感想が書けてしまうほどには制作者の意図を感じ取ることが出来ましたし、映画本編を楽しむことが出来ました。

「上げ膳据え膳で観客に意味を反芻することさえさせない映画なんて、俺たちがブッ飛ばしてやる!」


ラストシーンをぼくはそう捉えたのですが、他の方はどう感じるでしょうか? こんな偏屈な感想を最後まで読んでいるあなたにお薦めです。設定自体には意味はないかもしれませんが、作品としては充分に意味のある映画でした。おしまい。

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