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ショーン・オブ・ザ・デッド


Shaun of the Dead

感想:

好きになった人を落とそうとする行為は、よっぽどの人間でない限り「背伸びや無理をする」事になると思う。 あの人はどんなタイプの異性(もしくは同性)が好きなんだろう。どんな食べ物が好物なんだろう。何を生きがいに生きていて、どんな将来を描いているんだろう。


恋は盲目というが、好きになった相手の趣味嗜好や人生観まで分かち合いたいなんてのは阿呆の考えだ。


恋に目覚めると、
「私はあの人が好きだ。だからあの人にも私を好きになってほしい」なんて気持ちが沸く。だからこそ「私を好きになる方法」として、「あの人の好きなものを共有できれば、一緒に過ごす時間が作れるのではないかしら」などと考える。興味本位で合せたつもりがいつの間にやらハマッてしまい、気が付けば自分の方が没頭していた──などという事はまれで、多くの場合、それらは途中で「自分の人生を謳歌するためには不必要なガラクタ」として、心の不燃物置き場に投げ捨てられてしまう。何故ならそれは「あの人を射止めるための手段」として用いたものであり、それを達成してしまえばそもそも自分がそれ自体に価値を見出して手に入れようとしたものではない──つまりはハナから「いらないもの」に過ぎなかったのだ。そして世間一般でよく使われる「気持ちのすれ違い」はそんなところから始まったりする。いや、「すれ違い」ではなく、こういう場合はもともと通じ合ってもいなかっただけなのだが。

そういう意味において、「ショーン・オブ・ザ・デッド」の主人公ショーンのような恋愛境遇に置かれている人は無理をすべきではない。タバコを止めるとか、同居している親友を追い出すとか、常連になっているパブ通いを控えるとか、そういう一切の誓いは、恋人との関係が終わった時点で、「自分の人生においてやっておけばよかった取り返しのつかない事」になってしまうからだ。当たり前だが、共存生活をするために守るべきルールと、人に迷惑をかけない程度の自分の趣味嗜好には明確な線引きがあってしかるべきだと思うのだ。 私は誰に怒っていますか。

さて、この映画には二種類の「リビング・デッド」が出てくる。片方はおなじみのゾンビとして、もう片方は冒頭に映される、「死んでいるような顔つきで日々を暮らしている人たち」だ。 それにはショーンも含まれている。

死んでるように退屈に日々を生きている人間でも、やっぱり死ぬのはイヤなもんである。死ぬまでは。

この映画はそんな「いつかは終わる退屈な日常」の「いつか」が「今日」だとしたらどう生きるか、という話でもある。自分の大切なひとに逢って、彼らと少しでも長く「生きて」いられる場所を探して、そこにビールがあるなら一杯呑んで、どうせ死ぬなら最後に一服して……。そう、「もうすぐ死ぬ」というフラグが立った途端、今まで「こう生きるべき」と差し出されていたものはすべて無意味なものとなり、「すべて」は赦されるのだ。残り少ないひと時を後悔しないために。ではもし、それが「もうすぐ」ではなく、「あと少し」だったら? 「思ったより長く」だったら? 誰がどの順番で逝こうとも、どのみち我々に待っているものは、「"死"という概念自体の死が訪れるほどの永遠を経てもなお死に続ける」という等価な恐怖であるが、では人生の残りをどう過ごすべきか「今」考えなければならない状況が来たとしたなら? ……こんなコメディ・ホラー観てる最中にそんな事まで考えるようであったら、ちょっとお医者さんとか行ってみた方がいいのかもしれない。俺が。

ところでショーンとエドとの友情物語としてもこの映画はよく出来ている。周囲にさんざん言われながらもショーンが家から追い出せない、小学校からの友達であるエドは、三十路近くなった今でも「あの頃のままのエド」だ。それはショーンにしてみれば、「いつでも無邪気だったころに帰るために必要な人(アイテム)」という事でもある。街のちっぽけな家電量販店で一回り以上年齢の違う年下のバイトにナメられながら、今後人生において何ひとつドラマチックな出来事なんて起こらない日常を定年まで過ごすという悪夢からちょっとだけ現実逃避できる方法――それがエドとのプレステ対戦であり、パブでの駄話なのだ。だからもし、エドが自分の家から出て行ってしまったなら、この小さな"何も無い"街から、「ただ一つ息を抜けるひととき」すら無くなってしまうから、ショーンはエドに「掃除をしてくれ」程度は命令するものの、「出て行ってくれ」とは言えないのだと思う。出ていったなら彼女と同居すればよいのではないか、という意見もあるかもしれないが、はたして自分の行動を縛るルールを次々と作る人間との共同生活は、自分が好き勝手振る舞う代わりに相手の細かい事には干渉しない性格の気の置けない友達との生活の代わりになるだろうか。

その問いに対する答えは、事態をデウス・エクス・マキナ的に収集した後に訪れるエンディングで明示されている。流れるBGMのタイトルを知るまでもなく、愛と引き換えに大事なものを手放す事無くそれらは共存できたのだった、という着地は少々優等生的解答ではあるものの、最適解だと思う。素晴らしい。傑作。


p.s.
基本的に笑いどころの多いゾンビ・コメディーでお薦めです。「どんなところが面白いのか」とかはいちいち書かないので、知りたかったら本編を観るか検索すると出てくると思うのでそっちを参照のこと。

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